アキ・ソラーノ
あなたに幸せを届けます
Profile プロフィール
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私は日本人の両親を持ち、関西で生まれました。
現在は、アメリカ人の夫とともにラスベガスに拠点を置き、世界を舞台に活動しています。

あなたの悩みや苦しみは、私を通って希望に変わります。
少し長くなりますが、私のストーリープロフィールをぜひお読みください。

Story ストーリー
Story ストーリー

はじめまして、アキ・ソラーノです。

私は日本人の両親を持ち、関西で生まれました。
現在は、アメリカ人の夫とともにラスベガスに拠点を置き、世界を舞台に活動しています。

国籍をアメリカに移し、東洋と西洋の両要素を融合させる生き方をしています。
世界最大のヨガ組織「全米ヨガアライアンス協会」から最高師範(E-RYT500)の認定を受け、日本と全米の各地でヨガ指導者の育成やヨガの指導をしています。

大自然マウイ島でヨガ指導中のアキ

2009年には「ヨガヒーラー アカデミー ハワイ」をマウイ島に設立・開校し、400人以上のヨガ講師を輩出しています。私自身が創始した「プラーナチャクラヨガ(TM)」は、米国在住の成功者やセレブに支持を受け、日本では教育機関や企業にも広まっています。


その一方、がんサバイバーや、車椅子ユーザー、マタニティー、シニア、メンタル疾患がある方など、たとえ心身が不自由でもおこなえるヨガとして受け入れられています。私が開発した「ディープマインドフルネス」も日本を中心に世界中に広がっています。このディープマインドフルネスは古代インドのヨガ哲学に最新のマインドフルネスを統合させたメソッドです。

 

2020年に「一般社団法人ディープマインドフルネス脳科学協会」の会長に就任。医学博士で脳科学者の松代 信人博士とディープマインドフルネスを科学に検証し、それをわかりやすく伝える活動を行っています。関わるすべての人の無限の可能性を引き出し、一人ひとりが思い通りの人生をつくることができる社会実現に向けて取り組んでいます。

 

13年間のアナウンサー経験を活かしたスピーチレッスンや、ライフコーチとしての顔も持ち、日本やインドの子供の教育支援にも力を入れています。

 

このように書くと、「アキさんは、すごい人ですね!」「きっと、特別な人だからできるんだ」と、あなたは思うかもしれません。でも違うのです、私が特別なのではありません。「どんな人にも本来、無限の力と可能性がある」私は本気でそう信じています。

華々しく見える私の経歴の裏には、大震災やテロとの遭遇、差別された経験、前夫のDVと離婚、現在のパートナーや私自身の闘病・・・などの数々のドラマがあります。何度も死にかけ、壮絶な人生を送ってきました。

それでも前を向いて、「学ぶこと」と「成長すること」を諦めなかったのは、いつか出会うであろう「あなた」に、私の経験が必ず役に立つはずだと確信していたからです。

わたしの激動の半生と熱い想いから生まれた「ディープマインドフルネス プログラム」は、机上の空論や、流行りのビジネスマインドではなく、私が人生で体得してきたすべての出来事を総編集した魂の結晶です。

あなたの悩みや苦しみは、私を通って希望に変わります。
少し長くなりますが、私のストーリープロフィールをぜひお読みください。

自分のことが大嫌いだった子供時代と、ヨガ行者の祖父

私は物心ついた時から、「へんな子」「イモ!」と呼ばれていました。

小学校では休み時間になるのが怖い。できることならトイレに隠れていたい。
自分に自信がなく、人前で話すことも苦手だし、駆けっこは最低。
自分が嫌で嫌でたまらない子供でした。

そんな私の祖父は、経営者でありながらも、当時は珍しかったヨガの行者でした。
戦前から独学でヨガを学び、生徒さんたちを家に呼んで教えていました。

劣等感の塊だった私のことも、祖父は他の孫たちと同じように扱ってくれました。
私の可能性をしっかり見てくれている安心感を子供ながらに感じ、祖父の家に行くことは、私の希望でした。

この祖父のまなざしが、私にとって、初めてのヨガとの出会いでした。

「善いも悪いも区別なく、生きとし生けるすべての存在がみな尊きもの」というヨガの神髄を、祖父は体現していました。
この世の全てを愛して、平等に接する祖父の姿が、子供ながらに焼きついています。

19才で初インド。自分の可能性に目覚める

セルフイメージが低く、自分を好きになれないまま、19歳でヨガ発祥の地・インドを一周する旅に出かけました。ヨガ師範だった祖父の影響もあり、ヨガの真髄を肌で学びたい、という思いがありました。

そこで私はある風景に出会い、人生が大きく変わります。

それは、ガンジス川でのひとこま。

明け方の川岸で、太陽に向かって礼拝をする数百の人々。
川の中では、美しい衣を着た女性とその子供が祈りを捧げている。

そして、その奥には死体がゆったりと流れている。

この瞬間、「これは何⁈」と世界観が覆されたのです。

そして、「もう、なんでもあり!」と思わず叫びました。

私が普段「へんな子」と扱われるのもありだし、私の目の前に広がるインドの風景もあり、なんでもありで、可能性しかない。

いわゆる、マインドブロックが外れた瞬間でした。

「この世界は、無限の可能性があるんだ!」
「本当の自分は、はかり知れない存在なんだ!!」

狭くて窮屈な殻に閉じ込められていた19歳の私は、パンッと弾けて自由になりました。

これは、まぎれもなくヨガ哲学の真髄をつかむ気づきでした。

人前で話すことが一番苦手・・・だからアナウンサーになる

日本に帰国してからは、苦手なことも「本当はできるんじゃないか」と思い始めました。
「これからは躊躇(ちゅうちょ)なく、何でもやろう」と決意したのです。


教育に関心があり子供好きだったので小学校教諭免許を取得。
もっとも苦手な「人前に出て話すこと」に挑戦し、先生としてなら生徒の前で話せることに気づきました。

「さらなるチャレンジを!」と決め、大阪のテレビ局の番組リポーターのオーディションに応募すると、なんと数百人の中の2人に選ばれてしまいました。

戸惑いながらも、選ばれたからにはやるしかないと覚悟し、そこからは毎日必死のトレーニング。
担当番組のテーマが決まると、そのテーマについては古今東西すべてについて調べ上げました。
3日前に自宅のFAXに送られてくる長文の台本を、独自に編み出した暗記術を使って短時間で完璧に覚えるようにしました。

自分の脳をいかにフル回転させるかを、厳しい環境の中で体験的に身につけました。
この経験が、のちに学ぶことになる脳科学につながっていきます。
今までウジウジしながら生きていた分、徹底的に努力することに喜びを感じていました。

阪神淡路大震災で九死に一生を得る

フリーアナウンサーとしての仕事を順調にこなしていた1997年1月17日午前5時46分。

阪神淡路大震災が起きたその瞬間、私は宝塚のマンションで寝ていました。

真っ暗闇の中、ガツンッという衝撃で目覚め、その後はまるでジューサーの中に入れられたような激しい揺れに、完全に死を覚悟しました。

それもそのはず、私が住んでいたのは活断層の真上に建つ築20年のマンション。
7階建ての4階の部屋でしたが、鉄筋コンクリートがグチャッと完全によじれていました。

小さいながら夢のマイホームを購入した次の年に阪神淡路大震災が

揺れが収まってからは、脱出しないと死ぬと思いましたが、瓦礫のどこをくぐり抜けて逃げればよいのか、判断が難しかった。

おそるおそる出口を探しながら、ふと振り返ると、暗闇の中で布団が真っ白に光輝いて見えました。
私が寝ていた場所には、みごとに何も落ちていなかったのです。

この時、「生かされたんだ!」と、心のなかで思わずガッツボーズをしました。

「若い私でもこんなふうにいつでも死が訪れる。常にベストを尽くそう。まわりがダメだと言うことでも、私がいいと思ったら何でもやろう!」

悔いは絶対に残さず、常にピークで行こうと決めた瞬間でした。

夜明け前の薄暗いなか、やっと外に出ると、野外にもかかわらず血の匂いが充満していました。
裸足で瓦礫を踏み分けて来た私も血だらけです。
その場にいる人みんなが、着の身着のままで、たたずんでいました。

色彩コンサルタント会社の設立と成功

震災後、私は黒い服を好んで着るようになりました。
黒の服しか着られない心境だったのです。
でもアナウンサーなので、ディレクターからは「ピンクや黄色の服を着て来い」と言われる毎日。

このつらい体験をきっかけに、色彩と心の関係に関心を持ち始め、「色彩能力検定」という資格の存在を知りました。
当時の1級一発合格率は約2%。

その頃の私は、「自分に限界はない!」と決めていたので、合格率が低くても、「当然私は合格できる」と確信して勉強。
一発合格で、1級を取得しました。

その後渡米し、当時世界でもっとも著名な色彩コンサルタントに師事。色彩マーケティングを学びました。

帰国後は、このまま色彩に関する仕事で世界に進出しようと決め、2000年に色彩コンサルタントの株式会社を設立。
当時はまだ女性の起業が珍しかった頃でした。

大手企業のコンサルティングや社員研修、講演、執筆活動などで会社を順調に育て、本社を大阪から東京に移し、スタッフを雇い、やはり当時では珍しいリモートワークで業務をこなしていました。

NYへの挑戦と孤独

「世界一の都市で世界一のビジネスを目指す!」と決め、専門家のアドバイスをもらいながら、2001年2月にNYに会社を設立。
ボストンバッグ2つだけを持って、ニューヨークに降り立ちました。

しかしそこは、想像をはるかに超えた新天地。
生き馬の目を抜く競争社会。
言語も習慣も違い、さらに人種差別が激しく、私の価値観と自尊心はガタ崩れ。

借りたアパートには家具はなく、家具が揃うまでは段ボール箱のベッドで寝る日々・・・。

日本ではアナウンサーとしても、色彩コンサルタントとしても、女性経営者としても結果を出してきた。
「なのに、なんで私はこんなところにいるのだろう」と自問自答しました。

あまりの辛さに、「日本に戻ろう」という言葉が何度も頭にちらついて、そのたびに「なにやってるの!」と、自分で自分に言い聞かせる毎日でした。

そして、同じ年の9月にNYで起きた911テロ

まだNYでの生活の地固めをしつつある状況での大惨事に、私の生活も揺れました。
煙の臭いとともに、怒り、悲しみ、恐れの波動が、同じ町に住んでいる私を追いかけて来るのです。
「日本に戻ろう」とも考えましたが、逃げるようにして帰りたくない!と思いました。

日本で得た「自分は無限の存在」「なんでもできる!」という確信が、本物かどうかを、NYでは試されたのでした。
歴史的大事件が、私の人生を大きく揺るがしたのです。

ハワイ・マウイ島への移住と「アロハ・スピリッツ」 

世界のリゾート地。愛の島マウイ島

静かで平和な場所に住みたいと願っていた2002年、NYで出会った人と恋に落ち、結婚することに。
彼が住んでいた、ヨガのメッカ・ハワイ州マウイ島へ移住しました。

NYで心身ともに疲れていた私には、マウイ島の「アロハ・スピリッツ」がとても心地よく感じられました。

「アロハ」の意味は、今この瞬間この場所で心をつなげて、苦しみも悲しみも喜びも分かち合うこと。
呼吸するすべての人がつながって、みんなを受け入れて分かち合うということ。

肌の色が違っても、「ハイ!アキ!」とみんなが声をかけてくれ、初めて「アメリカで受け入れてもらえた!」と感じました。

そしてハワイの森羅万象から、生きとしいけるものを大切にすること、すなわち自分自身を尊ぶことを学びました。

この頃から、本格的にポーズをとるヨガを始め、夢中でレッスンに通い始めたのです。
NYや東京のような大都会が恋しくなっても、ヨガをすれば、自分の確固たる居場所は「ここにある」と思えました。

夫からのDVと闘病・・・そしてヨガと深く出会い直す

しかし、そんな幸せな日々も長くは続きませんでした。
前夫の家庭内暴力が原因で、ストレスから体調を崩し、ヨガが一切できなくなりました。

離婚を決意し家を出るも、一外国人の私はお金があっても家をすぐに借りることができません。
過酷な離婚裁判が続くなか、心も体も深く傷つき、通院する毎日。

見かねた友人たちが、空いている部屋や車庫を貸してくれました。
アメリカでは「ガレージジプシー」と呼ぶ居候状態で、友人たちの家を転々としました。

とてもヨガができるような状況ではありませんでしたが、実はこの期間は神様からの贈り物だったのです。

「体を使ったヨガの実践ができなくても、精神のヨガはできる」

この発見は、真のヨガを一から読み直すような、原点に立ち返る学びになりました。

真の幸福とは?を学ぶことができた日々

すべての人を受け入れる「プラーナチャクラヨガ(TM)」を創始

体が思うように動かなくなった私は、体を動かさずにできるヨガを実践しました。

ヨガには無数の種類があります。
もっともよく知られているのは、難しいポーズをするヨガですが、それ以外にもヨガ哲学、呼吸法、瞑想法、精神など数えたらキリがありません。
たとえ体が動かなくても、できるヨガはたくさんあるのです。

しかし、ふと気づきました。
「誰もができる、すべての人のためのヨガがない!」

ハワイの「ハ」は「呼吸」、「イ」は「神」という意味。
呼吸の神様がいる島で、闘病と、経済的に余裕がない状態から「それでも呼吸はできる」と、私は悟りました。

ハワイが教えてくれた呼吸の大切さ

「呼吸をしているすべての人のためのヨガを作れば、誰もが幸せを追求できる」
「たとえ、病気やケガで体が動かなくても、車いすに乗っていても、精神疾患を患っていたとしても、どんな人をも受け入れるヨガを作りたい!」

このようにして創始したのが「プラーナチャクラヨガ(TM)」です。
私自身の悟りと願いから生まれたこのヨガは、差別されたことも、受け入れられたことも、DVや闘病さえも、一つでも欠けたら完成しませんでした。

「ヨガヒーラー アカデミー ハワイ」を設立

すっかり心身の健康を取り戻した私は、ヨガの学びと実践を、さらに深めました。

その頃、体験と想いをブログで書き綴っていたので、「アキさんに会いたい」と言ってくれる日本の女性が、高い旅費をかけてまでハワイまで会いにきてくれるようになりました。

世界最大規模のヨガ組織である「全米ヨガアライアンス協会」の指導者の資格を取得後は、ハワイにて「ヨガヒーラー アカデミー ハワイ」を設立・開校しました。

当アカデミーでは、全米ヨガアライアンス協会認定の指導者育成プログラムを実施し、初回から満席となる盛況ぶり。

「私たちに3週間ください。人生をよりよく変化させるお手伝いをします」というキャッチフレーズで、どんなに満席でも少人数制にこだわり、しっかり指導するスタイルを取りながらも、約400名のヨガティーチャー(RYT200&RYT300)を日米で輩出しました。

再びインドへ。終わりなき学びへ

「ヨガヒーラー アカデミー ハワイ」を設立し、ヨガの指導をしながらも、一度構築したプラーナチャクラヨガをさらに進化させるために、ハワイ州公認のマッサージスクールに入学し、解剖学のディプロマ(学位)を習得。
そして、英語で学んだ解剖学の知識を日本語で覚え直すために、日本の整体師免許(民間資格)も取得。
日本語と英語の両方で、解剖学の知識を深めました。

ドクターが使用する解剖学の書物に囲まれながら、人間の体が秘める能力や可能性を引き出すヨガのあり方を考察していったのです。

さらに、「近代ヨガの父」と呼ばれるクリシュナマチャリア師(1888~1989年)の精神性を、魂レベルから学び直すために、師のご子息が運営する南インドにあるヨガアシュラムで修行しました。

師が大切にしたことは、
「人がヨガに合わせるのではなく、ヨガを人に合わせること。ひとりの個人に寄り添ったヨガを指導し、多くの人に目覚めと自由、そして癒しを与えるヨガ指導者になること」

ハワイへ帰国後、生徒一人ひとりの個性とさらに真剣に向き合い、潜在能力を引き出し、開花させる教育を実践しました。

学び舎 クリシュナマチャリア ヨガ研究所(南インドにて)

クリシュナマチャリア師の遺志を受け継ぎ、厳しさの中にある深い理解と愛に満ちた指導をしたことによって、「アキ先生のお陰で人生が変わった!」という生徒が続出したことは、私にとって大きな誇りです。

教育は人生を変えるツールです。
学ぶことによって、人はいつでも生まれ変わることができるのです。

私自身はこれまでに、総額7千万円以上を自分の学びに投資してきました。

解剖学、心理学、コーチング、脳科学、量子力学、マインドフルネス、栄養学、アンチエイジング手法などを、世界の一流といわれる専門家から学ぶことができました。

学んだことは、誰からも奪われません。
学びは最高の財産なのです。

一流の学びを経て出会った、最高の伴侶

2014年、気がついたら前の夫と離婚してから8年ほど経っていました。
経済的にも安定し、自信と希望に満ちた生活を楽しんでいましたが、人生のパートナーが欲しいと思うようになりました。
そして、理想のパートナー像を描くようになりました。

私にとって何よりも大切な条件は、「共に成長し合える仲間」であること。

そう思っていた矢先に、共通の友人からのご縁で出会えたのが、今の夫・トニーです。

お互いに出会った瞬間、「結婚する!」と直感しました。
そして、4ヶ月の交際期間を経て結婚。

これを機に彼が住むサンフランシスコへ移住しました。

ハワイの大自然を駆け巡っていた私が、FacebookやGoogleの本社があるシリコンバレーの住人になったのです。

出会った頃のトニーは社員2人の小さな会社のサラリーマンでした。

コロラドの自宅にて。
私のピアノの演奏で涙ぐむトニー(涙もろいのです)

この頃の私は、これまでの経験や、のちに「ディープマインドフルネス」として確立されるメソッドの実践を通して、自己実現能力を高めていたので、「このメソッドを使えば、夫も必ず成功するに違いない」と確信し、実践。

すると、結婚後わずか2年も経たずして、トニーが50ヶ国に支社がある国際不動産会社の副社長にまで駆け上がりました。

このメソッドはその後もトニーによって、さらに強化・進化していくことになります。

トニーの余命は1年?

2016年、トニーに肺がんが見つかりました。
避けることができない遺伝性の癌でした。

日米両国の医師の診察を受けた結果、いずれも余命1年と宣告されました。

とてもショックで、決して信じることができない事実でした。

「それなら、信じなくていい!」
「癌であろうがなかろうが、余命は自分たちで決める!」
「人生は自分で作り上げるものだから」

これが二人の共通意見でした。

まだまだ一緒にやりたいこと、笑い合いたいことがある。
寿命が1年だとしても、1年でさらに良いドクターに出会い、最適な治療法が見つかるかもしれない!

死と向かい合わせの闘病生活。
付き添いで病院に寝泊りの日々
大きな手術を終えたトニー(日本)。
これからも一緒に人生をつくっていこうね

私たちは、トニーの希望もあり、日本で闘病を続けることになりました。

2017年、アメリカの家を引き払い、夫婦で日本に移住。

体調が悪く、日本語も話せないトニー。トニーの病院での通訳は全て私。

私も日本を離れて約16年。
自分が生まれ育った国なのに、まるで浦島太郎になったような驚きと孤独に直面しました。

トニーは数度の手術を日本で乗り越えました。
2人で力をあわせて、私たちの試練をくぐり抜けることができたのです。

現在(2020年)、トニーが余命1年の宣告を受けてから4年が経過しました。
現在も薬は欠かさず飲むものの、肉眼ではがん細胞は見えなくなり、奇跡的に癌は寛解(かんかい)しました。

日本から再びアメリカへ、次元を超えた学び

「余生はやっぱりアメリカに戻りたい」というトニーの言葉で、またしてもアメリカに戻ることになりました。

私がようやく日本にもなれて、日本での仕事が軌道に乗り始めた頃でした。
学生時代の友達と再会し、新しい友達のつながりもでき、私の家族が「私の日本の我が家」に遊びにも来てくれるようになっていました。

「やっぱり日本は好き」「日本が終の住まい」と、私が実感した時に、またアメリカに帰国することになりました。

でも、どこにいようが、どこに行こうが、私たちが生きている限りは、自分の思い通りに人生をつくることができる。
私たちはみな、自分の人生をつくるアーティストなんです。

まるで、真っ白な画用紙を渡されて、
「この画用紙に思い通りの人生のストーリー(絵)を描きなさい」
と言われているようでした。

「また新天地で新しい人生をふたりでつくることができる!」というワクワク。

奇跡をくぐり抜けて私たちは今ここにいる!
人生は死ぬまでつくれる。人生は死ぬ時がピーク!

新しい住まいをラスベガスに選び、
2019年に私たちは再び米国へと戻りました。

ヨガを通して学んだのは、自分軸でした。
私は自分の人生の主導権を握り、「願うことはなんでも叶う、実現する」と確信していました。

そして、結婚してからは、私の人生にトニーの軸が加わり、さらに器が広がりました。
それは、自分だけではなく、もう一つの魂も一緒に生きて行くと決めたから起こった「2つの魂の融合」です。

それはまるで次元が変わったような大転換でした。

砂漠の中に出現する街ラスベガス 。
この街で私の使命を果たす

使命を果たすための出会い

短いながらも日本に住めたことで、素晴らしいご縁をたくさんいただきました。

私はハワイに住んでいた2009年から、インドの子供たちの生活と教育の支援をしています。

しかし日本に住むまで、日本にも貧困にあえぐ子供たちが多くいることを知りませんでした。

事実を知って愕然とし、私に何かできないかと思っていた矢先、たまたま出会った方に「国連P.R.I.D.E日本」を紹介され、理事として参加させていただけることになりました。

一番やりたかった「子ども食堂」のプロジェクトが、同時に立ち上がったのも不思議です。

私から「子ども食堂をやりましょう」と言ったわけではないのに、道筋がすべてできていたのでした。

肺がんの夫を連れて、16年ぶりの日本で途方に暮れていた私でしたが、夢を描いてミッションに生きれば飛躍できることを、またしても証明できました。

教育支援をしているインド在住のJちゃんから
サンキューレター(いつか会おうね)
子ども食堂でボランティア活動中

そして、医学博士で脳科学者である松代信人博士との出会いもありました。

脳科学の知見とマインドフルネスを統合化させ、人や社会の幸せと発展に貢献するために、松代先生と一緒に「一般社団法人ディープマインドフルネス脳科学協会」を発足することができました。

無限の可能性を発揮させる方法

実は日本に帰る前の2017年、トニーが尿毒症になり、3週間ものあいだ危篤状態に陥りました。

直前までピンピンしていた人が、突然意識が無くなり、植物人間のような状態になりました。症状が悪化し、看取りの神父が病室に7回も来たほどでした。

その間、私は魂を込めてずーっと祈っていました。

「絶対に死ぬような条件でも、医学的に無理でも、彼は死なない。」

そう確信していました。

もし、トニー自身が「あちらの世界に行く」と決めて、彼の魂が本当に行きたいなら、行ってもいい。

でも、彼はまだ行く用意が無いまま、私と一緒に今生で過ごしたいはず。

ディープマインドフルネス受講生様と(東京)

彼の魂の選択を尊重し、祈りました。

すると彼は、3週間後に意識を回復させたのです。

その第一声は、

「忘れ物があったから帰って来た。あの世に逝く前にアキの声が聞こえたんだ」
「アキとやりたいことがもっとあるし、アキを守らないといけない。」

トニーの魂がこのように闘ってくれたからこそ、私は「ディープマインドフルネス プログラム」を確信とともに「世に広めよう」と決心しました。

すべては「ディープマインドフルネス」を伝えるため

たとえ昏睡状態の人にでも、意識が無くても、想いは伝わります。

だから、ディープマインドフルネスのプログラムは、想いを持つことから始まります。

何を手に入れたいのか決める。
そして、手に入れるまで絶対にあきらめない。

でも多くの人たちは、最初の想いが曖昧なのです。

私は、生死をさまようトニーを祈った時には、「トニーが行きたいなら行けばいい。でも、私は行ってほしくない」という、一点だけを純粋に見つめました。

「もう死ぬんじゃないか」と頭によぎると、想いが濁ります。

肺がんで、日米のドクターが余命1年と言えば、多くの人は信じるでしょう。
でも、それを信じたら本当に余命1年になってしまいます。

「あんた、ダメな人だね」と言われたら、本当にダメな人として生きることになる。
昔の私がそうだったので、よくわかります。

私はこれまで、「自分の人生を変えたい」という人の人生を大きく変えてきました。
奇跡とも言われるたくさんの変化も見てきました。

私はこれまでの経験で、目に見えないものを強く信じながらも、現実的に地に足を付けて行動してきました。
つまり、目に見える世界も、見えない世界も、両輪で動かす術を身につけたのです。
それは常に、中庸を行く生き方を目指しているからです。

最後まであきらめないで。
想いはカタチにできるから。
2019年。幾多の試練を乗り越えて
トニーと旅行を楽しむことができました
(マニラ)

「ディープマインドフルネス プログラム」は、世界の名だたる企業のCEOや成功者、著名人が取り入れたマインドフルネスと、3000年の叡智を持つヨガ哲学を融合させた、唯一無二の自己実現メソッド。
いわば、西洋と東洋の中庸です。

このプログラムを開発することが、私の大きな使命だったのだと確信しています。

ヨガの実践をしながらも解剖学や脳科学の造詣を深めたことも、日本人の血が流れていながら現在は米国人であることも、すべてこの道に通じていたのです。

これまでの人生で経験してきたことすべてと、
世界中で学びを得てきたこと、
耐えられない苦しみをくぐり抜けたことで開発することができたのが、「ディープマインドフルネス プログラム」です。

人生に行き詰まりを感じている方や、さらに飛躍したいと切望している方のお役に立ちたいという思いで、お伝えしています。

「全ての人には無限の可能性がある!」

「ディープマインドフルネス プログラム」を通して、あなたのミッションを見つけて、あなたの魂をさらに成長させ、充実した人生を送ってください。

MAX幸せな人生をつくりましょう。
その方法は私が教えます

繰り返しになりますが、忘れないでください

唯一無二のあなたは尊き存在です。

あなたには思い通りの人生をつくる力があります。

今までうまくいかなかったという方は、
その方法を知らなかっただけかもしれません。

諦めないでください。
私がいます。

あなたにお会いできる日を、とても楽しみにしています。

アキ・ソラーノ サイン